日本美術院


日本美術院を辞職した後に天心がまず最初にやったのは、 一緒に辞めた若い弟子たちとの新しい美術創造の 母体組織を作ることだった。
それは「日本美術院」として創立されることになり、 下村観山や横山大観、菱田春草らを中心に絵画部が作られた。
 
橋本雅邦らとスタートした「日本美術院」のために、 資金繰りとして天心はアメリカのビゲローに援助を頼み、 一万ドル(当時の日本円にして二万円)という大金を得ることができた。
この資金を使って急ピッチで研究所の工事をして、 その間には東京専門学校(後の早稲田)へ特別課外講師として参加したりしていた。
そこで大隈重信と知り合い、日本美術院の後援者となってもらった。
天心は日本美術院のために忙しく働いたが、 各地で行われた展覧会などは大成功であった。
この後もシポンサーを見つけるための活動をしたり、 日本美術に新しい試みである『朦朧体』という技法を生み出したりもした。
『朦朧体』とは従来の画法にない、明暗表現、光の表現、 大気の表現を求めたもので、横山大観や菱田春草らに 「空気を描く方法を考えろ」と言って作らせたものである。
 
しかし線のはっきりしない『朦朧体』は当時の日本では認めてもらえず、 活動が行き詰まってしまった。

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