学術研究の徒


フェノロサが辞職し、天心は帝国博物館で理事及び美術部長になり、 九鬼隆一の推挙で臨時全国宝物取調局取調掛に任命された。
 
このころ住居は中根岸へと移し、家族で住んでいた。
近くには今泉雄作が住んでおり、日本美術について語り合ったりもした。
当時、芸術という言葉はあったが、 美術という言葉はあく、二人の会話の中から自然に生まれた。
根岸で集まってよく飲んでいたが、 集まった人を根岸党と呼んで遊んだものだった。
 
日本美術学校では教師に森鴎外を迎えたりして理想にも近づいており、 天心の「日本美術史」の授業は特に評判を呼び、 ほかの学校の学生が聞きにきたりすることも多く、 天心自身がほかに出向いて授業をすることもあった。
 
天心は学者としても評価を上げ、その後、 多忙な公務とともに学術研究の徒としても活動することになる。
まず、高橋健三と共に国華社を設立して、 美術雑誌「国華」を明治22年に日本最初の本格美術専門雑誌として発行させ、 「国華」は世界的に認められた。
また「円山応挙」、「狩野芳崖」論なども寄稿し、 帝国博物館で日本美術史に関するものも刊行する。
さらに天心はその後、客内省から視察として 中国行きの通達受けるなどという出来事が続いた。

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