東京美術学校


海外視察から帰国した天心を浜尾新らが迎えたが、 天心の帰国を待たずして東京美術学校は設立されており、 学長に浜尾新が、幹事に岡倉天心という任命が下されていた。
これは当時の文部大臣であった森有礼との教育に関する考え方の違いによるものだった。
 
東京美術学校では教授の要として狩野芳崖を抜擢するはずであったが、 開校目前にして亡くなってしまったため、叶わぬこととなった。
そのため天心は着任後に、高村光雲を彫刻家の教授としたりした。
 
東京美術学校の設立で忙しかったが、 子供たちと欧州旅行で仕入れてきたサッカーで遊んだり、 妻・基子にシャーロックホームズの話をしたりした。
 
東京美術学校ではフェノロサも着任したが、 学生に英語が通じないのもあって授業が不評だった。
また、明治22年には帝国博物館ができて総長に九鬼隆一、 理事及び美術部長に天心は配置され、フェノロサの名前は役人の中になかった。
当時の外国人教師としてのフェノロサの高給も問題となり、 翌年フェノロサは辞任して日本を去ってボストン美術館へと移った。
 
開校二年目には校長 兼 教授として着任し、 当時28歳だった天心はそれから8年間務めることとなる。
自由な雰囲気の中での教育であり、天心も教壇に立って日本美術史、 泰西美術史、美学などを教え、それまでの経験を踏まえた授業は画期的で評判だった。

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