音楽取調掛


東京帝国大学を卒業した天心は、 明治13年に学長であった浜尾新の推挙によって 文部省・音楽取調掛御用係として就職した。
 
音楽取調掛御用係では音楽教育家であったソーメン夫妻と家族ぐるみで付き合い、 東西の音楽について語り合うなど親交を深めた。
就職した翌年の明治14年には長男・一雄が誕生し、 天心は19歳で父親となった。
 
それからアメリカで音楽を学んで帰国した伊沢修二が音楽取調掛に所属し、 長となるが、天心とは確執が生まれてしまった。
先に所属していた天心が音楽取調掛御用係として非常に優秀であったからである。
 
そんな状況を心配した浜尾新は、天心を音楽取調掛御用係から外し、 専門学務局へと転属させるなどの配慮をした。
天心はフェノロサの通訳をしながら日本美術の重要性を認識していき、 明治15年にはフェノロサやビゲローらと奈良、京都の古社寺の視察調査を行う。
こうした活動を通して美術伝統への認識を深めた天心は欧米化の進む時代に対して、 伝統の自覚と使命感を持つようになり、 狩野芳崖や橋本雅邦らとも知り合って一緒に日本美術を育てるための活動も始めるようになった。
明治17年からは反洋画の美術批評家としても活動を開始し、 学校の図画教育に伝統的な毛筆画を採用することを主張した。

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